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Essais / Esssays
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イヴォンヌ・カルチエの生涯
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Aged under 6
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40年余りの時を隔てて、経験豊かなジャーナリストと若きダンサーの言葉で集約されるイヴォンヌ・カルチェの疾風怒濤の人生は、2014年5月11日にパリで閉じられた。
踏み固められた道を歩むことを徹底して拒否し、一匹狼として生きることを選んだ。元ロイヤルバレエ団のソリストであり、後にマイムのスペシャリストとなり、すぐれたクラシックバレエの教師であったが、無名のままのヒーローとして生きた。
フランスとアイルランドの血統を持つ彼女は、1928年にオークランドの近郊で生まれた。劇場人生は4歳の時に始まる。
ベッティーナ・エドワーズ(マーガレット・クラクスの弟子であった)の下で学んでいたおかげで、第2次大戦後すぐにRADの海外研修のスカラシップを得て、サドラーズウェルズ・バレエ学校に入学する。卒業後、ヒットしたレヴュー、『タルタルソース』に出演し、オードリー・ヘップバーンと共演する。同時にヴェラ・ヴォルコバ、オードリー・ド・ヴォスに師事する。
1949年、アラン・カーターのセント・ジェイムス・バレエ・カンパニーに参加。デヴィッド・ブレアのフランツを相手にスワニルダを踊る。1950年、BBCテレビ・レジデント・バレエ・カンパニーのソリストとして踊る。コベントガーデン・オペラ・カンパニーのツアーに参加した後もいくつかの小さなカンパニーで踊るが、そろそろこういう安定した仕事をくれないカンパニーとの仕事に幻滅し始めていたころ、1952年に、サドラーズウェルズ・バレエ団にソリストとして迎えられる。(当時のツアーのコンディションはひどいもので、窓の閉まらない部屋で凍ったシーツの上で寝たことがあると語っていた。)
残念なことに、当時は治療不可能であった骨の突起による痛みが激しくなり、1957年、当時のロイヤルバレエ団を退団することになる。イヴォンヌはマーゴット・フォンティーンの推薦状をもって、パリのジャック・ルコックのマイム学校に入る。極端なまでのプライドの高さから、退団の本当の理由をド・ヴァロワに打ち明けたのは、何年も後のことだった。
しかし、ペギー・ヴァン・プラークはイヴォンヌを忘れなかった。ペギーは1958年、エディンバラ国際フェスティバルの折に、オールスターグループのバレエミストレスとして参加するよう、イヴォンヌを説き伏せた。(カルラ・フラッチ、へニング・クロンスタン、カーステン・シモーヌ、エルザ・マリアンヌ・フォン・ローゼン、クレール・ソンベール、マックス・ボゾーニ、ミロラッド・ミスコヴィッチ、ジョルジュ・スキビン等が出演していた。)
このわずか後に、イヴォンヌはロンドンに招待され、フォンティーン、サムス主演によるBBCの『眠れる森の美女』のバレエ映画にカラボス役で出演する。
その後フランスに戻ってルコックのグループに加わり、ヨーロッパをツアー。英国、イタリアでテレビのショーに出演し、BBCのドキュメンタリー、『コミュニケーション手段としての手』に出演する。
1963年、偉大なるマイム役者マルセル・マルソーに誘われ、再び広く旅公演を行う。60年代の後半にはテアトル・ナショナル・ポピュレールで、ミシェル・カコヤニスおよびジョージ・ウィルソンのアシスタント・ディレクターを務める。また、彼女は長年にわたって、エコール・シャルル・デュランでマイムを教えた。1970年代には、クロード・コンフォルテが演出する芝居のために振付を行った。
イヴォンヌの最後の舞台出演は、ノエラ・クリスチャンのスワニルダのパートナーとしてのフランツであった。『コッペリア』100周年を記念して、パリ・オペラ座のポーレット・ディナリクスとリュシアン・デュトワがサン・レオン版を再現して英国を周り、好評を博していた。
1961年、再びクラシックバレエの指導を始める。1969年にはRADシステムをフランスに紹介し、この功績により1995年にRADの終身会員として迎えられる。イヴォンヌの教授法の質の高さは評判になり、パリ市のコンセルヴァトワールのスタッフとして迎えられる。彼女の生徒のうちの3人がRADのソロシールを与えられ、その後も優れたキャリアを積んでいる。ミュリエル・ヴァルタット、ベティーナ・マルコリン()、トニア・ステフュク・オルソンの3人である。ミュリエルは、フィリス・ベデルス奨学金を受け、アドリン・ジュネコンクールで2度の銅メダルを獲得し、ロイヤル・バレエ団のファーストソリストになった。ベティーナは、スウェーデン王立バレエ団のソリストであったが、現在は、ストックホルムにおいて注目を集める振付家、また教師として活躍している。トニアは、もう10年以上もソルトレイクシティーバレエのソリストとして踊っている。
1980年代には、多くの≪古い世代の≫教師たちが、必要以上に足をあげる、レオ・カースリーが「足上げダンス」と呼ぶような踊り方の流行にやる気をなくして辞めていった。流行に合わせていく教師も多くあるが、イヴォンヌは偉大な教師たちから学んだものを伝えることにこだわった。誇張を避け、解剖学的に正しく体のポジションを作る。腕は背中からしっかりと支えられ、テンポが速くても、運動量が大きくても常に理想的な形を保つ。打つパはエロル・アディソンから学んだ軽く、素早い、癖のない動きを見せる。
イヴォンヌは劇場を、演技の科学を、喜劇と悲劇を愛したが、「規格化された」感情やバレエ的な顔つきに対しては、容赦なく否定した。たとえクラスであっても、一つ一つの動作は音楽に適した反応でなければならない。たとえクラスであっても、一瞬一瞬が生き生きと、魂の声に従っていなければならない。
2007年、イヴォンヌはオーギュスト・ヴェストリス・ソサエティーのファウンデーションメンバーとなり、主催のイヴェントにおいて多くのリハーサル指導をした。死の2,3か月前まで若いプロフェッショナルダンサーを指導し、最後まで皮肉のきいたユーモアとわがままなまでの情熱を持ち続けた。
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2010, at the Centre de danse du Marais, Paris
Clockwise from left to right: Emma Brest, Pier Paolo Gobbo, |